流浪の民、それから

寒い日だった。

雪がちらついていた。

自分はよそ行きの服を着せられていた。

母親にすごい力で手をつながれていた。

母親はまるで追手から逃げるかのような速足だった。

いつもとあまりにも様子が違う。

よそ行きの服を着るのは、たいてい楽しいおでかけの時なのに、

その日は雰囲気が違った。

一体どうしたんだろうと歩きながら母親の顔を見上げた。

自分が何かやらかして怒られる時なんかくらべものにならないほど、

ものすごく怖い顔の母親が目にうつった。

「どうしたの?どこに行くの?」と問いかける自分に

「いいから早く歩きなさい!」と言い、母親は自分の手をまたがっちり握った。

この時の記憶はそこで途切れている。

 

次に覚えている時間。

母親は昼間いなかった。とは言っても、2階に行けば顔は見られた。

お昼ごはんは2階で、お父さん、おかみさんと呼ばれる人や

調理さんと呼ばれる人、女中さんと呼ばれる人全員が集まって食べていた。

母親は住み込みの女中と言うやつで、夜は宴会もあって忙しく、

部屋に戻ってくるのは夜中だったので、いつも1人で先に寝ていた。

後に聞いた話では、23時ぐらいに戻っていたそうだ。

 

1階であてがわれた部屋はすごく広く感じた。いや、広かった。

1階部分がそのまま平屋住居状態だった。

居間があって、バカみたいに広い寝室があった。

寝室の天井は漆喰の飾りがされていた。

居間の扉を開くと、何故か水の出るところはないが、調理場のようなスペースがあって

調理場を出ると廊下があり、玄関とトイレ二方向に延びていた。

トイレの手前に小さい流しがあったが、水道はひかれていなくて

後で知ったが、その地域はナントカ山の雪解け水を引いているとの事で、

勢いこそないが、常時水が流れていた。

トイレの便器がすごかった。

陶器製なのは普通のと同じだが、便器に何やら藍色一色の模様が描かれていた。

後にも先にも、あんな便器は他に見たことがない。

流しの手前に木製の階段があった。階段の幅は広くて、手すりもピカピカだった。

ああ言うのをよく使いこまれたナントカと言うのだろう。

今考えると、恐ろしく古いのは確かだが、高級な部屋だったようにも思える。

多分、昔は客室だったか小規模宴会用の部屋だったんだろう。

 

2階より上は全部自由に歩けたわけじゃないので、記憶も結構曖昧だ。

どこもかしこも磨き上げられてピカピカだったのだけは覚えているが。

まず、お客様用の広い玄関がある。

この建物は坂道の脇に建っていたので、1階に自分達の部屋の玄関、

2階にはお客様用の玄関があった。

それから前述したみんなで集まってご飯を食べたりする部屋、ものすごく広い調理場。

調理場はいつも何かの料理の匂いがしていた。

夜の宴会に備えて、調理さん達が忙しくしていた。

調理場の一角にけっこう大きい水槽があって、

なんとか山の万年雪解け水が絶えず流れていた。

日差しのある時はその水がキラキラして、すごく綺麗だと思っていた。

調理場をうろうろしていると、たいてい調理さんにすごい剣幕で怒鳴られる。

(1階の部屋から2階のごはん部屋に行くには調理場を通過しなければいけないんだが)

たまに年長の女中さん(結構な歳と言うかおばあちゃん)が、おにぎりを握ってくれた。

塩じゃなく、醤油を表面につける。それでご飯がぽろぽろしない。

どんなおやつよりも、あれが嬉しかった記憶がある。

 

1~2年そこで過ごしたように思う。

祖母が母親に任せておくと自分がダメになるなどとまくしたて

ほぼ強制的に祖母が自分を預かる事にしたらしい。

今言えるのは、余計な真似してくれたな、だけだ。